Diary?

2016年03月17日(木)
【幸村と信繁】
どうもTSUでごじゃる


さて最近はBASARAといい無双といい刀剣乱舞といい、女性向けの歴史物というのが流行っていますね。

それの筆頭は新撰組なんですが、やはり刀剣や戦が盛んな戦国時代、そして最近話題の真田丸で有名な真田家

その中でも有名なのは真田幸村。
まぁ昔にも述べましたが真田幸村なる人物は歴上には存在しません。
真田信繁をモデルとした書籍の主人公の名前が真田幸村です。有名な「真田十勇士」ですね。
ではなぜこの幸村が有名になったかと言えば徳川幕府時代に講談に出てから猿飛佐助やら筧十蔵やら魅力的なキャラクターが悪(誰とは言いませんが)倒していくという爽快な物語だからです。

これにより父の昌幸や兄の信之ほどでなかった信繁が真田幸村となって死後から今まで有名になりました。
信繁ゆかりの地でも「真田幸村」と表記されているのは講談の幸村が有名ゆえにわかりやすいように表記されています。

さて父昌幸は表裏比興物(ひょうりひきょうもの)やらたぬきおやじと呼ばれる程の軍略化で智謀に長けた人物です。
どれが本当でどれが嘘か、どれが本心でどれが建前か信用できないわけではないが信用してもいいのかわからないが手放せば損をするだろうと昌幸が仕えた大名に思わせる食わせ物です。

そのエピソードの集大成とも言えるのが「上田城攻防戦」です。

関ヶ原の合戦が今や今やと始まる情況で徳川家康の息子である徳川秀忠が江戸(東京)から信濃(長野)を経由して関ヶ原(岐阜)へと向かうのですが、途中の信濃の上田城で足止めをくらいます。
信繁の兄である信之が徳川方に付いているので秀忠は「これは楽勝」と思ったのでしょう

秀忠臣下「上田城を明け渡せ!!」

真田方「おう!ええんやでー」

秀忠臣下「え?い、いいの?」

真田方「ええんやで(ニッコリ)でもみんなの割り振りとか色々決めるからちょっち待ってやでー」

秀忠臣下「ああ、わかった」

秀忠方は内心は楽勝と思っていましたが、待てど暮らせど真田方から何も応答がありません。
秀忠もいろいろと攻撃してみますが相手は智謀の将と言われた真田昌幸。全く動じません。
結局秀忠が関ヶ原に到着したのは合戦が終わった頃。一説には家康にこっぴどく怒られて暫く話すらしてもらえなかったという逸話があります。

さてさてその後昌幸と信繁は解易とよばれる大名の地位を剥奪されて紀州(和歌山辺り)の九度山へと幽閉されます。

信繁の手紙には食うのにも困るほどなんて書かれていたようですが、実際はそこまでではなく、父昌幸から兵法と軍略を学び、父昌幸死後は地元民と親好を深めて軍事演習をする等、なかなか充実したようでした。
そして九度山幽閉から14年。亡き豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼から現在の紙幣価値で9億円を貰い受けて大阪冬の陣の参戦を要請されます。

正直有名な表裏比興物である父の昌幸ではなく息子の信繁、徳川側にいる兄の信之ではなく弟の信繁という心象が豊臣家臣には根強くあったのか、秀頼を除いてほとんどの豊臣家臣に信繁は信用されていません。

その上にどこから漏れたのか家康が信繁に「10万石(10億以上)か信濃(長野)をあげるから徳川につけ」と言った話が豊臣側に入ってしまい不信を抱かれます。

この話は史実かはわかりませんが信繁は「すでに信濃には大名がいるのにその大名の事も考えずに言える家康は信用できない」と突っぱねたと言われています。

さて大阪冬の陣で有名な真田丸ですが、これは囮を含めた超迎撃的な構造で作られたと言われています。
南から攻めてくる徳川に対して最前線に置かれているので敵はまずそこを落として足掛かりにして敵陣を攻めようとしますが、この真田丸が落ちない。

正面から攻めれば鉄砲隊の集中砲火、真田丸を囲う堀から攻めれば真田丸からは丸見えで集中砲火、逆に北側に回って手薄だろうと攻めてみれば既に鉄砲隊が布陣されていて集中砲火とどうにもなりません。

徳川側は大打撃を受けるわけですが、誰もが疑問に思うのが「そんなに弾薬がもつのか?」ということ。それだけ来る敵来る敵に鉄砲ぶっぱしていれば弾薬がなくなるんじゃね?

そこで生きてくるのが九度山での幽閉です。
大阪の陣で集まったのは何も信繁だけではなく故昌幸についていた旧真田家家臣だけでなく、九度山で親好のあった紀州の人達。
特に紀伊や紀州は鉄砲の腕が立つ人が多く、その上に14年も戦をしていないサムライ()と違い毎日力仕事をしている漁師も信繁の真田丸に集結します。
文献にもあるように大阪の陣の信繁の軍は異常ともいえるほどに士気が高かったと言われ、冬の陣後の和平交渉に徳川側が「戦で作った堀は埋める」というのに、全ての堀(戦以外含め)だけでなく真田丸跡地(堀じゃない)まで埋めてしまうという行動をさせます。

夏の陣では真田丸が使えないので秀頼の参戦を要望しますが、前途したように豊臣側に信用されていない信繁の案は豊臣家臣や淀殿にあっさり捨てられ、信繁や集まった豊臣側に恩恵のあった将が家康の首を目指して出陣し、最後は撃たれて信繁の生涯は終わります。

とまぁ幸村イメージとあまり変わらないという人もいるでしょうが、どちらかと言えば勇猛果敢だったり熱血漢に溢れたというよりは、冷静沈着に父昌幸の智謀を受け継いだ軍略家という人なのが実際の信繁です。
それも30〜40代で、という話ですからイケメン熱血カチコミ野郎ってキャラクターではないですね


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