１９２５年１月２０日、アラスカ西部の寒村ノームで恐るべき伝染病ジフテリアが、子供たちに襲いかかった。ジフテリアは主に子供に感染し呼吸困難と全身が神経麻痺に冒される。そして既にノームでは３人の子供が死亡、村のほとんどの子が死の危機にされされていた。
この病気には血清が必要で、唯一人のこの村の医師カーティスは電信で本国に血清の緊急輸送を依頼した。さっそく本国から空輸でアンカレッジに血清が送られた。アンカレッジからネナナまでは鉄道で運ばれたが、ここからノームまでは交通網がない。道すらないのだ。その距離は実に1100km。
この間にいくつかの村落はあるものの、１月のこの時期、気温は－４５度にも及ぶ極寒の雪原地帯が広がっていた。通常、鳥なら翼が凍り付く程の死の世界だった。どのようにして血清を運ぶか。そんな時、名乗りをあげたのはアラスカ全土の犬ゾリ隊だった。
勇気ある犬ゾリ隊の名士たちが、約1100kmの道のりを２０区間に分けて血清を運ぶことになった。そして、最後から２番目の最も険しい区間を、アラスカでも名高い犬ゾリの名手ガンナー・カソンとリーダー犬バルトーの犬ゾリ隊が引き受けることになった。捨て犬だったバルトーはカソンに拾われ、そり犬として育てられた。バルトーは希にみる賢い犬で、アラスカで１，２を争うリーダー犬に育った。
１月２７日、ネナナから第一走者が血清を持ってスタートした。この決死のリレーに許される時間は６日間。それを過ぎるとノームの子供たちの命の保証はない。
犬ゾリの精鋭たちは昼夜を問わず１日３～４チームで引き継がれ、５日で１８区間、約1000km血清が運ばれた。残すはあと１日、約100kmとなった。ついに血清がカソンとバルトーのもとに届いた。２月１日昼すぎ、彼らの犬ゾリ隊がスタートした。夜には、54km先の最終中継地点に血清を引き渡さなくてはならない。早朝にノームに運ばれなければ、意味がないのだ。
最終中継地点まで54kmは、８匹の犬ゾリ隊が雪原を半日に走れる限界に近い距離であった。その上、この区間はアップダウンの繰り返す、過酷なコースだった。
－45度という寒さの中、止まることなく走ることは経験のないことだった。カソンと犬たちの体力は激しく消耗されていった。さらに思いがけない事態がカソンを襲った。日光の照り返しで目が焼きつく雪目になってしまい、視力を失ってしまったのだ。
ブリザードの中、カソンの体力が限界に達し、倒れ込んだ所で血清がそりから転げ落ちてしまった。カソンは血清を見つけることができない。倒れたまま意識が遠のいた時だった。バルトーが自ら首輪をほどき、声で血清の場所を必死に主人にしらせ、カソンを励まし立ち上がらせたのだ。
カソンが最終中継地点に着くはずの時間はとうに過ぎていた。最終走者はブリザードに阻まれ、捜索隊を出すこともできない。血清が最終地点に届くことなく朝が来てしまった。
ノームの村人が、悲しげに窓の外を見た。すると、朝の光の中に一つの犬ゾリ隊がこちらに向かってきているのを発見した。なんと、意識のないカソンをそりに乗せたバルトーの犬ゾリ隊だったのだ。彼らは、直接ノームまで血清を届けたのだった。
バルトーたちが走り抜いた距離はなんと84km。舵取りのカソンの視力と方向感覚を全く失った犬ゾリ隊が何故、ノームにたどり着いたのだろうか。
バルトーはたった一度だけ、ノームに行ったことがあった。そのかすかな記憶を人間には計り知れない本能でたどったのだろうか。また、血清を子供達に届けなければ、というカソンの強い思いもわかっていたのかもしれない。主人と一心同体だったバルトーだったからこそなし得た奇跡だったのであろう。
こうして、バルトーのもたらした奇跡で、村の子供たちは一命を取り留めた。村の未来が救われたのだ。もちろん、この奇跡の陰には180匹の犬たちの活躍があったことも忘れてはならない。アラスカの犬たちの1100kmを駆け抜けた命をつないだリレー。
この話はアラスカの犬ゾリ隊の名を大きくとどろかせた。中でも、主人を助け84kmをリーダー犬として走り抜いたバルトーは伝説の名犬となった。村の人々の間では、今でもバルトーの話は受け継がれている。バルトーはこの村の恩人で、ノームの歴史から消えることは決してないのだ。
バルトーの活躍は映画でも紹介され、アメリカ中の子供達の人気者となった。ニューヨークのセントラルパークには、バルトーの偉業を讃える銅像が建っている。
後年、主人のカソンはこう語っている。「バルトーが闇と吹雪の中でさまよっていた私を直感的に導いてくれたおかげで、私は人間だけでは決してたどり着くことのできない奇跡の道を走り切ることができたのだ…」。
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