👻UMA、伝説、怪事件👽

🐁明智光秀の謎
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日光東照宮 陽明門 随身像

南光坊天海説

光秀は

日光東照宮 陽明門 随身像

南光坊天海説

光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。


異説の根拠として、

日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承があること。天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。
徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
学僧であるはずの南光坊天海が関が原戦屏風に家康本陣に軍師として描かれて、その時、着たとされる鎧が残っていること
光秀の家老斎藤利三の娘於福が天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけ、3代将軍徳川家光の乳母(春日局)になったこと
光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。
童謡かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説
しかし、これらの根拠には以下の反証が挙げられている。

日光東照宮には桔梗以外にも多くの家紋に類似した意匠があり、さらに桔梗の紋は山県昌景や加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らない。
寛永寺の公式記録では天海は会津出身とされており、実家とされる船木氏も桔梗紋である。
天海が一時期僧兵として鎧を着たことがあっても不自然ではない。
比叡山の石碑に関しては後世の偽造との説も出ている。
天海が光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて無理(但し、途中から光秀の死後に長男の光慶が天海を演じたなら辻褄が合い、親子で天海を演じたという仮説も存在する)が生じる。
諱についても秀忠の秀の字は結城秀康や毛利秀元や小早川秀秋のように秀吉から偏諱を賜ったものであり、家光の諱を選定したのは天海とライバル関係にあった金地院崇伝であり、家綱と家継の元服時にはすでに天海は死亡している。
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